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After Action Reports & Reviews of Simulation War Games ほぼ引退したウォーゲーマーの日記

【戦国群雄伝】「関東制圧」国府台戦記(第二次国府台合戦) +国府台戦場探訪期(後編)

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引き続きゲームジャーナル55号「関東制圧」の追加シナリオ「国府台戦記(第二次国府台合戦)」シナリオをソロプレイ。時系列的には、第一次国府台合戦から26年後の永禄七年の、北条軍vs里見・太田軍の戦いを扱っている。近年では、永禄六年にも合戦があったと言われ、永禄七年時の情報とごっちゃになっているとも言われている。こちらも4イニングのみのミニシナリオ。

里見義弘(★★313)軍7千(7ユニット)は、最初から国府台城に布陣。太田康資(★223)隊4千は、本城である岩槻城に配置。対する北条氏康(★★233)、氏政(★★213)親子が率いる総勢2万は本拠地・小田原城にある。

このシナリオの面白い特別ルールは、父・北条氏康が総大将として合戦の采配を振るってしまうと、反北条方に勝利ポイントが5点入ること。この時期、すでに家督は息子の氏政に譲られているのだから、たとえ野戦修整が低くても、氏政に合戦をやらせなさいと。まあ、反北条方としても、野戦修整2の太田康資は大将格なので合戦の指揮が執れず、総大将格の里見義弘に戦ってもらうしかない。しかし北条氏康(野戦修整3)と里見義弘(野戦修整1)が合戦した場合、修整差が2もあるため、歯が立たないだろうし、ゲームとしても面白くないので、こういう処理になっているのだろう。

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というわけで、第1イニング(永禄七年一月第一週)、第1ステージ、先手・反北条方は、北条方の江戸城に向けて前進して合流。とは言え、ここで合戦して負けたら、また複数の河川を横切って退却時に追加ステップロスが生じてしまうし、結局、国府台城に戻った方が良いのだろう。北条軍も、すでに小机城(現在の横浜市港北区)まで進出している。

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第2ステージ、里見・太田軍は国府台城へ戻り、総勢1万1千をもって北条軍を迎え撃つ構え。北条軍は、26年前の第一次合戦と同じく江戸城を越えて葛西あたりに着到。

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第3ステージ。今回は里見軍にしろ太田隊にしろ、行動力が3あるため、ここで何か行動をしても良いが、何ができるわけでもなくパス。そして北条軍は、やはり26年前と同様、北上して荒川、江戸川を渡り、北条氏康隊4千を連絡線維持部隊とし、北条氏政隊1万6千で国府台城の北東に陣を張った。これにてまた、里見・太田軍と本城との間の連絡線が断たれることになった。

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第2イニング(一月第二週)、開始ステージ。連絡線を断たれた里見・太田軍は、指揮-1に。そして第1ステージ、里見・太田軍は士気回復チェックを行い、こちらも26年前と同様、いずれも判定に成功した。北条氏政は『ちぇっ、またかよ』と舌打ちしつつ、ここで合戦を決断。北条軍32戦力16ユニット、里見・太田軍25戦力11ユニットが激突し、野戦修整は互角。しかし5ラウンドにわたる合戦で、里見・太田軍の全ユニットがステップロスして敗退。しかも最終ラウンド手前で、里見・太田軍は1ユニットだけ表面で残り、最終ラウンドで複数ユニットが除去されるという、戦国群雄伝をプレイされた方ならご理解いただけるであろう、酷い負けパターン。さらに後退する際に北条軍のZOCで追い打ちをかけられ、最終的に里見・太田軍は1ユニット残らず殲滅されてしまった。北条氏政は5ステップロスしただけだったが、それも後方で見守っている父・氏康からすれば『儂が采配を振るっておれば、もっと少ないステップロスで済んだのにのお』という感じかもしれない。

まあ、第一次国府台合戦よりも兵力差が開いていたので、北条が圧倒的だった。デザイナーの故・錦大帝氏も「バランスは良くないシナリオだと思いますが」と書かれていたが、史実がそうだったのだから、ある意味、仕方ない。

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さて、ここからは昨日の国府台城探訪の続き。国府台から下りて江戸川縁に出て、北の松戸・矢切方面へ進んで行く。遠くから見ると、南の国府台から、北の矢切に至るまで延々と高台が続いているのが分かる。1ヘクス=6kmの「関東制圧」では、国府台城が位置するヘクス3429が荒地になっているが、国府台だけではなく、さらに北の矢切、さらに北の松戸も含めての「荒地」なのだろう。

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松戸市矢切と言えば、演歌「矢切の渡し」が有名だが、実際、江戸川の河川敷ゴルフ場の真ん中に今でも「矢切の渡し」が残っている。しかし曲名は「やぎり」だが、地名としては「やきり」と呼ばれることが多い。この地名、一説によると、第二次国府台合戦の際、敗北した里見軍がここで矢が尽きた(矢が切れた)ことから「矢切」と呼ばれるようになったとも言われているが、この川岸から東側の台地上までの広い範囲が「矢切」なので、実際この川岸で交戦したとは限らない。

また、戦国群雄伝では、基本的にはどこでも河川は渡れるが、恐らく当時は、浅瀬なり、舟を持つ集落があるような渡河点でしか渡れなかったのではないか。第一次国府台合戦での北条軍も「松渡の渡し」から渡河したと言われているが、より詳細に当時を再現するなら、渡河点ヘクスサイドを定めた方がリアルなのだろう。しかし日本全国の戦国時代当時の渡河点をチェックするとなると気が遠くなりそうだ……

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この矢切周辺まで来ると、国府台から続く台地と、江戸川の堤防との間隔がとても広くなり、今では田畑が広がっている。当時とは様子が違うにしても、一応、渡河点として考えると、これだけ江戸川から距離が離れていれば、北条方が渡河しても、国府台城のように川岸の崖上から弓を射かけられる心配はないし、軍勢を整える余裕も生まれる。

第一次国府台合戦での北条氏綱・氏康軍は「松渡の渡し」を経て、松戸台へ陣を張ったが、それをすぐ近くの相模台城で見ていた小弓公方軍前衛部隊がこれを報告。しかし小弓公方義明は、あえて北条軍が渡りきるのを待ち、合戦に及んだと言われている。また里見義堯は、渡河中の北条軍を攻撃しなかった小弓公方義明を見限り、国府台城近辺から動かなかったという説もある。

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では、ここからまた江戸川を離れて、小弓公方軍が布陣していた相模台へ向かってみよう。しかしそこに行く前に、松戸駅南西の上矢切を歩いてみたが、このあたり、東京外環自動車道、国道6号線(水戸街道)、JR常磐線が交差しており、しかも矢切から松戸に至る高低差もあり、歩道も非常にややこしくなっていた。外環自動車道にしても、このように高架を走っているが、この先で矢切の台地にぶつかり、トンネルに入っている。

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国道6号線もトンネル化されている。

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その国道6号線(水戸街道)のトンネルを抜けた先に「陣ヶ前」という、いかにも古戦場っぽい名の交差点がある。ここは、小弓公方義明の陣屋跡と言われており、前衛部隊がいたとされる松戸駅近くの相模台城からは直線距離で1kmと離れていない。

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しかし、この「陣ヶ前」交差点、当時の地形とは違うだろうし、トンネルも無かっただろうが、東西に走る水戸街道がVの字型にくぼんでいる谷底にあり、南の市川方面からの道も上り坂、北の松戸駅方面に行く道だけが下り坂なので、上り3方向には視線が通らないという、布陣するにしては不利な地形だなと。

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さらに歩いて、松戸駅近くの松戸中央公園、かつての相模台城跡へ来てみた。ここに小弓公方軍の前衛部隊がいて、松戸台城に渡ってくる北条軍を発見。この相模台城と、より江戸川に近い松戸台城との間も、直線距離で1kmも無く、非常に近い。松戸台城は、すでに親北条方の手によって占拠されていたという説もあり。

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そう、第一次国府台合戦は「国府台」と言いつつ、実際の戦闘はこの相模台での北条軍vs小弓公方軍の合戦がメインとなったと思われる。国府台に布陣していた里見軍は、積極的に参加しなかったらしい。昨日ソロプレイした「小弓公方始末記」シナリオも、里見軍が合戦に参加しない方が史実には沿っていたのかもしれない。だからこそ小弓公方軍が、総大将まで討ち死にするような大敗を喫したのだろう。

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そしてこの相模台城から、切り立った崖を下りた先に松戸駅と、周辺の繁華街が広がっている。この地形もなかなか面白く、駅前のイトーヨーカドー等は、この相模台の崖を背後にして建っており、初めて松戸駅に来てこの地形を見た時は『なんでこんな崖下に駅や街を作ったんだろう』と不思議に思ったほどだ。

とまあ、ここまで3時間ほど歩いたので、今回の探訪は切り上げたが、さらに駅の南側には、北条軍が陣取った、かつての松戸台城である「戸定が丘歴史公園」があるけれど、とてもそこまで行く体力が残っておらず、今回はスルー。

しかしこうやって両軍の移動経路や、合戦当日の動きなどを見ていくと『当時の地形はどうだったんだろう』という疑問がわらわらと湧いてくるし、そうなってくると郷土史研究も見ていく必要が出てくるし、まあ、歴史沼ですなあ。地元・市川市の図書館なら揃っていそうだし、今度探しに行ってみよう。