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After Action Reports & Reviews of Simulation War Games ほぼ引退した蔵書系ウォーゲーマーの日記

【戦国群雄伝】「関東制圧」小弓公方始末記(第一次国府台合戦) +国府台戦場探訪期(前編)

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ゲームジャーナル55号「関東制圧」の追加シナリオ「小弓公方始末記(第一次国府台合戦)」をソロプレイすることに。こちらも、元々は故・錦大帝氏が同人版として発表されたものだそうで、ツクダ版には含まれていない。今回は76号「独眼竜政宗」に付いていたカウンターを切って、国府台合戦の地元・市川市民として、いざ挑戦である。また本来は編成表を用いてユニットを管理するが、今回は盤上に積み上げる形で、両軍の兵力数がわかりやすいようにしてみた。

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と言ってもシナリオは4イニングのみで、補充無し、両軍の合戦だけを扱うもの。

まず第1イニング(天文七年九月第四週)、第1ステージ、先手の反北条方、小弓公方軍1万(10ユニット、1ユニットは500人~1000人なので最大値で書いておこう)が小弓城を出て国府台城に着陣。同じく反北条方の里見義堯4千(4ユニット)も国府台城へ向かった。対する北条軍も、当主・北条氏綱1万5千と、嫡男・北条氏康4千をもって本拠地・小田原城を進発した。また北条に味方する古河公方晴氏1千も、岩槻城へ前進している。

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第2ステージ。先手・里見義堯隊はまだ国府台城に着陣していない。小弓公方隊は行動力2のため、これがこのイニング最後の行動となるが、里見隊が来る前に前進しても仕方ないし、国府台城でただ待つのみ。一方、北条軍総勢1万9千は、江戸城を越えて、恐らく史実通り、葛西あたりに到着。また古河公方晴氏は、たった1ユニットなのに江戸川を渡河している。これは次の第3ステージへの布石。第3ステージも動ける行動力3の里見隊に接敵される可能性もあるが、その時は行動力3の北条軍も古河公方の位置に来るだろうし、あえてその位置でイニングを終えても大丈夫だろうと。

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そして第3ステージ。里見隊も国府台城に着陣し、小弓公方軍と合流。総勢1万4千となった。これに対して北条軍は、北方へ迂回して江戸川を渡河し、国府台城の背後に迫る形で陣を張った(史実的にも、葛西から北上して松戸台に渡河したと言われている)。一応、岩槻城から古河公方隊を経由して連絡線は通っている。この形で合戦となり、小弓公方・里見軍が敗走した場合、東に逃げて北条軍のZOCを通って追加ステップロスを被るか、西に逃げて複数の河川を渡って追加ステップロスを被ることになる。北条軍は小弓公方軍の退路を断ち、さらに言えば本城からの連絡線も断っている。

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第2イニング(十月第一週)、開始ステージ。本城との連絡線が断たれた小弓公方・里見軍は、士気-1となる。しかし第1ステージ、先手の小弓公方・里見軍は士気回復を行い、運良く3部隊とも士気回復に成功した(ダイス1個振って行動力以下が出れば成功)。後手・北条軍は『くそっ、士気が下がった状態で戦えると思ったのに』と舌打ちしながらもここで合戦を選択。北条軍38戦力19ユニット、小弓公方・里見軍32戦力14ユニット、総大将の野戦修整差なし(★★北条氏綱3、★★小弓公方義明3)という殴り合いが始まった。そして6ラウンドに及ぶ戦闘の結果、小弓公方・里見軍の全ユニットがステップロスし、敗走が決定。各部隊とも、東の本城に向かって後退する際、北条軍のZOCによって追加ステップロスを喰らい、最終的に小弓公方2ユニット、里見2ユニットのみとなり、死傷者1万2千(10ユニット除去、4ユニットがステップロス)という大敗北となった。

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それでも第2ステージ、先手・御弓公方軍は本城に戻って籠城。里見隊は上総へ逃げ延びた。後手の北条軍は、氏康隊に国府台城の包囲を任せ、氏綱隊は小弓城へ。そして第3ステージ、北条氏綱隊は、士気-4の小弓城を包囲していきなり降伏勧告。総大将が籠城している(ダイス修正-2)し、城の耐久力もフル(10)とは言え、ダイス2個振って7以上が出たので、呆気なく小弓氏は降伏して除去。これにて北条方の勝利と相成った。まあ、4イニングだけのミニシナリオだし、プレイバランスも決して良くはないので、とりあえずの感触さえつかめばOKと。

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さて、せっかく国府台城の地元・市川市生まれ、市川市育ち、市川市在住なので、その現場である国府台がどのような地形なのか、現地写真と共にご紹介しよう。こちらは、京成線・国府台駅のホームから撮影した写真。左に見えるのが東京・千葉の境である江戸川、正面に見えるこんもりした森が国府台である。また右に見える道路は、県道1号線、通称「市川・松戸線」「松戸街道」である。市川市松戸市は、隣接しているものの、鉄道アクセスが悪く、この「市川・松戸線」が最も主要な交通ルートになっている。

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江戸川の堤防に上がると、さらに国府台の森がよく見える。あれが「関東制圧」のヘクス3429「荒地」なのだ。

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「市川・松戸線」に戻り、国府台に上がる坂を北上する形で登っていく。この台上には、和洋女子大、国府台高校など学校が多く、この日も試験でもあるのか、多くの親子連れが坂を登っていた。

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坂の上まで来て振り返ると、なだらかな坂ながらも、結構上がってきたことがわかる。今日は気温が低かったから良かったものの、夏場にこの坂を上がると結構汗を掻く。「荒地」ヘクスとして、単なる行軍(戦略移動)なら移動力消費1で良いけれど、この台上に陣取った敵に対して接敵(戦術移動)するなら移動力消費2、というのは分かる気がする。

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坂の上まで来ると、平坦な台地になっていて、軍勢を収容するには適している。その台上に、国府台城跡、現在の里見公園がある。自分も中学生の頃、歩き遠足でここまで歩かされた記憶が……

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実はこの地域に学校が多いのは、戦時中まで軍用地があり、それが戦後になって転用されたため。昔からこの土地に住む老人(うちの親父)の話では『戦時中は高射砲陣地があった』そうな。基本的に砲兵部隊が駐屯していたのね。

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パンフレットを読むと、江戸川に向かって二重の土塁が築かれていた跡があるそうだが、こちらも城の遺溝には詳しくないので、なんとなく往時を偲ぶのみ……

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崖上から見下ろすと、対岸の江戸川区葛飾区(関東制圧のヘクス3329)が良く見える。戦場の観測ポイントとしては、なるほど抑えておきたい土地なのだろうが、とは言え、当時は対岸も芦原だったろうし、対岸の様子ってどこまで見えていたのやら。

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そして河川敷の広さも当時とは違うのだろうが、かなり川縁に近い場所に位置している。つまり敵が正面から渡河してきた場合、崖上から矢を射下ろせる位置にあったのかなと。ノルマンディのオマハ海岸とまではいかないが、戦国群雄伝の小競り合いで言うなら、たしかに河川修正-2、荒地修正-1を喰らいそうな……

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崖下へ下りて見上げると、これはたしかに攻めるのが厄介な斜面。上から弓矢や石を投げられたら嫌だなと。実際、第二次国府台合戦の際には、早まった北条軍先鋒部隊がこの急傾斜を直接攻撃し、壊滅している。場所としても、小弓公方と里見軍が合流するには、わかりやすい城であり、地形だったと思う。なにしろ戦場でのC3i(指揮、統制、通信、情報)が制限されていた当時、2つの軍隊がどこで落ち合うかを決めるのも難儀だったはず。恐らく当時、東京湾岸を北上してきた小弓公方、里見軍が、江戸川にぶつかり、その傍にある小高い丘の、対北条前線基地である国府台城で合流するのが一番自然だったし、容易だったかもしれない。国府台城は、合戦の前から存在していたが、江戸川とその河岸という天然の要害物を有していた城だし、とりあえずそこを拠点に……という判断だったのだろう。

それに対して北条軍は、正面渡河を避け、さらに北上して松戸台に向かい、相模台に陣取っていた小弓公方軍と戦ったと言われているが、そちらの現地写真は次回に……